年一回発行している「雪州会」だより」も本号で第30号目を迎えることになった。そこで、創刊号から29号までの巻頭部分に掲載されている言葉を抜粋して紹介することにした。東京雪州会の歴史の一部を垣間見て頂ければ幸いである。なお、紙面スペースの都合で、それぞれの文章は編集部判断によりかなりな部分をカットして掲載することをご了承頂ければ幸いである。古風な表現を用ゆるようだが、人ひとたび郷関を出でなば、富は富とて貧しきは貧しとして、誰か故郷に憶いを馳せざらん。古里は良きかなとは文人の詩情のみでは無い。等しく吾等の感傷でなくてはならぬ。そこに想いを致した雪州会同人が、この会員の郷愁を充たさんとして、ここに「雪州会だより」を編纂して、壱州人の香り高い生の消息をお贈りしようと企てたのがこの小誌である。欲も得も無い。気に召さねばお目こぼし、読み捨て勝手だが、これをひとつの会員相互の意思疎通に役立つように育成してやろうと云う覚召しが出たら、どしどし紙上参加によって紙上更に花を添えて頂ければ幸せでまたそあることを偏に期待して
已ま昭和48年(1973)12月発行 創刊号雪州会・真鍋儀十会長記ない。
昭和49年11月発行・第二号雪州会・真鍋儀十会長記 久しぶりに車で島巡りをやってみた。ずばり道路は世界の一流級で、四通八達はおろか、循環道路までおまけがついている。成る程一戸当たりの車保有量が一点何分とかで日本のトップを行っていると聞けば、低い鼻も高くならざるを得ないが、かえりみていささか文化過剰の傾向は無いか、車は植えたが松ノ木はは松くい虫に半分やられていて、どこかに歯車がかみ合わないところがある。勝本の城山など素っ裸で、香椎高等小学校の卒業生であるこの私は思わず「畜生!」と罵った。なんと怒ったって松くい虫などに通ずる訳もないと知りながらである。
昭和50年11月発行・第3号雪州会・真鍋儀十会長記 福岡壱岐人会長によばれ、是非総会に出席しろと言うのででかけたが六、七年前のこと。そこで初めて壱岐の人口の増えない謎が解けた。なんと壱州の二万何千人が博多に犇いていたのだ。
昭和51年11月発行・第4号・雪州会・真鍋儀十記 むかしから馬鹿の一つ覚えということがあるが、日本には夏から秋にかけて必ず台風が忘れないでやって来て、時には何十億という損害の置き土産して行く。これがため、世間では九州本土から壱岐にかけて台風銀座などけったいなニックネームを奉る。ところが今年は台風がどこかで浮気をしたか、壱州を素通りしたらしい。まずは目出度し。
昭和52年11月発行・五号・雪州会・真鍋儀十会長記 今時の人には通じなくなったかもしれないが、壱州独特の「にくじゅう」という方言がある。語源は「憎さげなことを言う」のつまりかもしれない。皮肉交じりの冗談のことである。
昭和53年11月発行・第六号・雪州会・真鍋儀十会長記 新聞を読んでも中々解らんことが多くなった。例えば今度の総理の訪問で中東とか、別に近東とか、国際連盟にも無い名前がちょいちょい出てくる。東とか近とかどこのことかねと訊いたら、あんたが日本人だからそんなことを云う。あれはみんな欧州張りのの日本語で、ヨーロッパで決めた方位だから我慢しなくては生らないのだといわれた。
昭和54年12月発行・第7号・雪州会・白川応則会長記 わが雪州会の会長は故三富翁から松永安左エ門翁が引き継がれ、松永翁は昭和46年6月、翁がなくなられるまで、五十数年間会長としてお世話下さったのであります。松永翁がなくなられてからはご承知の通り、真鍋儀十翁が各方面にわたり、熱心にお世話くださいましたが「健康上どうしても会長をやめさせて呉れ」とのお話でやむを得ず不肖私が会長の職をけがす事に相成った訳であります。
昭和55年10月発行・第8号・雪州会・白川応則会長記 世界第二次大戦が終わった頃、貴重なエネルギーの石炭は、打ち続く戦乱のため凡んど使いつくされ、わづかに北海道及び東北地方の一部に残っているのみであった。然し大量の未開発水力が残存しておったので、政府当局及び故松永安左エ門翁等を初め各事業者、各金融機関等、国を挙げて電力エネルギーの開発を促進したのである。漸次各家庭の電力は使用も緩和され、製鉄工場、家庭用電気関係工事、土木工事、其の他各種の産業が漸次拡大されたのは御承知の通りである。
昭和56年11月発行・第9号・雪州会・白川応則会長記 壱岐神社・壱岐護国神社境内に松永安左エ門翁の筆になる社号標が建立されたので、本年5月11日に帰省、同神社に参観した。壱岐神社・壱岐護国神社には少弐資時公がお祀りしてあり、又東京の靖国神社の祭神中壱岐出身者は全部お祀りしてある。
昭和57年11月発行・第10号/東京雪州会・白川應則会長記 わが壱岐は東京から遠く離れた離島ながら、対馬と共に、大陸と日本をつなぐ要衝として昔から注目された処でありますので、此の後も一層の発展が期待されます。
昭和58年11月発行・第11号/東京雪州会・白川應則会長記 ▼今は飛行機の便があり、船便も又大きな船が運行され、運行の回数も増加し、運行時間も驚く程短縮され、日帰りさえ出来る事になつて居るが、一般の方には余り知られていない様である。是非、壱岐、対馬等に目をむけてもらいたい。海産物に恵まれ、又農産物にも不自由がなく、宝島とも言えるだろう。
昭和59年11月発行・第12号/雪州会・白川應則会長記 壱岐は数千年前から、対馬と共に本土と大陸をつなぐ重要な位置にあるため、例えば元尭の役、秀吉の朝鮮出兵、近くは世界第二次大戦の時等々に大変な苦労を重ねている。為に壱岐人は精神的には強く、しかも性格は誠に温和である。長い間祖先から引継がれた結果であろう。
昭和60年11月発行・第13号/東京雪州会・白川應則会長記 ▼壱岐は対馬と共に地勢上、大陸に対し日本の玄関口に位置しておる。大陸に連なる、朝鮮、中国、「ロシア」 に近接しておる。従って往時より、文化流入出の通路になり、度々重大なる問題にも遭遇しておる。
昭和61年11月発行・第14号/東京雪州会・長岡元会長記 ▼白川会長の後を受け、図らずも会長にご推薦いただき、責任の重さを痛感しております。東京雪州会会長は初代の先覚者であり、温容な三富道臣翁から、二代目は古今を通じ、電力会の大御所といわれた松長安左エ門翁、三代目は普選の雄・衆議院議員真鍋儀十翁、四代目は松永翁直系の、東北電力副社長だった白川應則翁と受け継がれて参りましたが、これら会長に一貫していることは、遠くにいて壱岐を思う「強い郷土愛」でありました。私達も当然のことながら、これを受け継ぎ、これからの若い世代に生かしていかなければならないと思っています。
昭和62年11月発行・第15号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼図らずも会長に推挙いただきました。私は浅学非才その任ではないので、固くお断り申し上げましたが、長岡元五代目会長が病気で急逝されたので、この際どうしてもとのことでした。 東京雪州会は在京壱岐人の親睦機関として古い歴史と伝統を持つ団体であります。二代目松永安左エ門先生は、本の中で 「どんなに世間で評価の高い偉人でも、愛郷心に欠けた者は人間として価値はない」と申されました。当会はこの言葉をモットーとして、今後一層壱岐との交流を密にして、会の発展と親睦を深めたいと老ごえております。
昭和63年11月発行・第16号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼電力王であり、二代目雪州会長だった松永安左エ門先生の著書の中に、人間が生きているだけなら豚の一生と同じだ、犬猫でさえ口口一杯生きていくものだ、せめて人間ならば、この世の中に何か一つだけでよいからお土産を残してゆくことが必要だ、それが人間である」という言葉がある。世のため人のためお役に立ってこそ本当の人間であるという松永翁の教えを私は肝に銘じ、人間らしく生きることにつとめている。
平成元年11月発行・第17号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼「島を花いっぱいに」と壱岐の新聞に私が発表したのは四十余年も前のことだ。私の考えは椿、水仙、菜の花など四季おりおりの花で、観光客の目を楽しませて、また花見に行こうとお客を引きつけるのが狙いであった。
平成2年11月発行・第18号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼戦後日本の教育がどのように変ったか知らないが、相当の地位にある人の犯罪が新聞を賑わすのを見るにつけ、アメリカ一辺倒化した教育のヒズミがここに来て噴き出したのだと私は考えている。
平成3年9月発行・第19号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼壱岐出身の画家が戦後次々に新聞を賑わしているのを見て、私は大変意を強くしている。壱岐から優れた芸術家が生まれるのは、邪馬台国以来三千年の歴史と純朴な自然が育んだことに違いない。
 壱岐に美術館が出来れば、その時代の作品や文化を次代の子孫に伝えることが出来る。このような意味から四ケ町長は強力一致して壱岐に美術館を建てることを考えて欲しいというのが、私の年代の考えでありお願いである。
平成4年11月発行・第20号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼終身雪州会長だった松永安左エ門先生の言葉の中に「どんな成功した人でも、郷土を愛さない人は、尊敬に催しない」と述べられている。ふるさと壱岐を離れて、現在東京に居住する人々は恐らく何千人を越えると思われる。この人々が幼い頃に、桑の実や椎の実を食べたこと、椿の蜜を吸ったことを思い出し、夢に見ることと思う。
平成5年11月発行・第21号/東京雪州会・松坂直美会長記 ▼現在島内に二百数十ケ処の巨大な古墳があるのを見ても、壱岐が古代から日本の文化に寄与し、日本人の母胎であったことをよく物語っている。その壱岐で原の辻」の遺跡をこの四月より本格的に史跡発掘調査中とのこと、私達壱岐を郷土とする者にとって喜びに耐えない。
平成6年10月発行・第22号/東京雪州会・後藤園丸会長記 ▼松坂会長が健康上の理由で会長職を辞任され、あとは私にやってくれとのお話がございました。この上は、及ばずながら全力をあげ、輝かしい伝統を受け継いで会員の親睦を図り、また遠くにいて壱岐を思う「強い郷土愛」を以て臨みたいと思います。
平成7年10月発行・第23号/東京雪州会・後藤園丸会長記 ▼壱岐「原の辻の遺跡」は言う迄もなく、既にNHK初め民放、大新聞などで全国的に報道され壱岐も有名になつた。東京から壱岐に行った方達は「原の辻」の規模の大きいのに皆びつくりし、そして郷土のためによい事だと喜んでいる。
平成8年11月発行・第24号/東京雪州会・後藤囲丸会長記 ▼在京壱岐人は皆ふるさと思いである。「壱岐」は、最近、テレビ、新開でもよくとりあげられるようになった。昔日の比ではない。私が壱岐出身と知っている或る東京人が壱岐のことが新聞のテレビ番組ででていたと態々ビデオにとって持ってきた。女優さんの壱岐紀行をとりあげたものだが、編集内容も充実していて、全国放送だけにテレビ局の企画は有難いことだと思った。
平成9年11月発行・第25号/東京雪州会・後藤園丸会長記 ▼雪州会だよりには毎号会員によるふるさと思いの投稿が見られる。四月の壱岐の有志による松坂名誉会長の詩碑建立と歌謡音楽祭についても壱岐からの呼びかけに応じ、多くの当会有志の協賛があって感謝したが、根底にはやはり壱岐思いの気持ちがあったと思う。 原の辻遺跡は国の遺跡指定が決まった。さらに一階級上の佐賀県・吉野ケ里遺跡と並び国宝級に相当する特別史跡の指定を受けるべくことが進められている。 マスコミによれば、各地で遺跡の発掘が行われ、町村は村おこし町おこしに躍起である。吉野ケ里遺跡は年間数百万人の人が訪れると公表されている。原の辻遺跡も速やかなる遺跡の整備・復元が待たれる。かくて全国民にふるさと「壱岐」を知ってもらいたいものである。
平成10年11月発行・第26号/東京雪州会・後藤囲丸会長記 ▼当会は三富道臣民 (第五代石田郡長、明治二十九年上京 詩人朽葉の実父) を会長とし大正初頭創設、大正末期に二代会長に松永安左エ門翁が就任 (松永翁追想記−椿原常太郎)。昭和二十八年五月二十九日松永翁出席のもと終戦後初の雪州会総会が小石川後楽園滴徳亭で開催、総会の議決を経て雪州会会則制定・施行されました。会則第二条で、会員は東京および近県に在住する壱岐出身の者ならびに壱岐に関係ある者をもって組織することが定められ、現在に至っております。昭和三十一年十二月十三日明治記念館、同四十年十一月十七日虎の門共済会館に於いて総会が開かれ会長の松永翁 (翁八二才と九一才) が出席されました。 私は何れの総会にも出席し、先輩方の雪州会即ち故郷壱岐に寄せられる心に打たれるものがありました。その気持ちはかわることなく、現在も私自身のなかにあるのです。
平成11年11月発行・第27号/東京雪州会・立石公博会長記 ▼後藤会長がこのたび任期満了により退任する決心をされ、七月になつて後任を私にというお話がありました。私はその任でないので、固く辞退申しあげましたが、伝統のある雪州会のため是非引受けてくれとの強い要請があり、内諾いたしました。 幸いにしてお二人の名誉会長、各副会長、正副幹事長、会計、監事の方々、また顧問、相談役の方、理事、評議員の方々もご援助下さることになり、心強く思っております。 皆様方もご承知のとおり、東京雪州会はこれまで八十年を越える古い歴史と輝かしい伝統をもち、首都圏在住の壱岐出身者の親睦機関として強いきずなに結ばれ発展をしてまいりました。これからは更により多くの若い方々にも参加を呼びかけ、相互の懇親と啓発につとめるとともに今後一層壱岐との交流も盛んにして、親睦団体としての役割を果たしてまいりたいと考えております。 私は、七代にわたる歴代会長の伝統を受け継ぐべく、会員各位とともに新しい世紀にふさわしい東京雪州会にしたいと念願しております。どぅぞ皆様方のご指導、ご支援を偏にお願い申し上げます。
平成12年11月発行・第28号/東京雪州会・立石公博会長記 ▼昭和四十八年夏、雪州会(大正初頭の創設から昭和五十七年までの名称)の会員相互の結びつきをより一層強めるためにと、機関誌の発刊が企画され、〔雪州会だより〕と誌名も決まり、題号を当時の三代会長真鍋儀十翁にご揮竜頂いた。今、あらためて、創刊号から目を適してみると、往時の諸先輩の方から若い方にいたるまで、誌面に溢れているのはそれぞれのふるさと壱岐に対する思いである。雪州会だよりも第28号を迎えた。今、時代は大変なスピードで大きく変化しようとしている。ふるさと壱岐に遠く住みながら、私達は、壱岐の島の心ゆくまでの発展を願って止まない。と同時に、幼年、青春時代を過ごしたふるさとの美しい自然の風景がいつまでも変わらずにあってほしいと思うのも事実 である。
 世の中がどのように進歩し、変化しょぅともその根底に流れているのは、人と人のつながりや自然を大切 に思う気持ちであろうかと思う。 今後、ふるさと壱岐が一層発展しながら、美しい自然というかけがえのない財産も大切にし、育てていただきたいと切に願うものである。
平成13年11月発行・第29号/東京雪州会・立石公博会長記 ▼このたびの東京雪州会総会は21世紀冒頭の総会でもあり、殊のほか感慨深いものがあります。私たち東京を始め関東に在住する壱岐島出身者が壷に集い、遠く離れた故郷に想いを馳せ、会員相互の親睦を図る。これこそが東京雪州会員の喜びであり、当会の最大の目的でもあります。この積み重ねが80有余年にわたる当会の歴史と伝統を育んできたといえましょ、つ。 その意味でも、関東地区壱岐出身 者でまだ当会に加入されておられな い老若男女、各界各層の幅広い方々 の参加を期待している次第です。今 年度は壱岐高東京同窓会や壱岐商高同窓会(関東地区)、さらには各地区団体などのご協力も得て、会員増強と、総会への積極参加を呼びかけ て参りました。 その効果もあり、新規の多くの仲間を迎えることができました。 今後更に会員皆様のご協力は勿論、各団体相互の連携を密にしながら「魅力ある東京雪州会」の運営を目指していくことが大事だと思ってぉります。皆様の一層のご協力をお願いいたします。一方、故郷壱岐におきましては、町村合併の動きや地域の活性化を目指した各種取り組みが積極的に展開されており、心強い限りであります。 故郷の益々の発展を祈念いたしております。