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昭和48年12月・創刊号・発行/雪州会
発行所/東京都中野区東中野二丁目17番12号
雪州会事務局
発刊の辞
雪州会会長 真鍋儀十
古風な表現を用ゆるようだが、人ひとたび郷関を出でなば、富めば富むとて貧しきは貧しとて、誰か故郷に憶いを馳せざらん。古里は良きかなとは文人の詩情のみでは無い。等しく吾等の感傷でなくてはならぬ。そこに想いを致した雪州会同人が、この会員の郷愁を充さんとして、ここに「雪州会だより」を編纂して.壱州人の香り高い宝の消息をお贈りしようと企てたのがこの小誌である。
欲も得も無い。気に召さねばお目こぼし、読み捨て勝手だが、これをひとつ会員相互の意思疏通に役立つように育成してやろうと云う覚召しが出たら、どしどし紙上参加に由つて錦上更に花を添えて頂ければ幸せでまたそうあることを偏えに期待して己まない。ともかく、ここに創刊号と名乗るものの土梓を見た。たがこれは倍大で、いつまでもと云う訳には所帯が許さない。たとえ次号かち見劣りがするようになっても、ご愛読は倍大を続けたいと希っている。
先づはこ二に蕪辞を陳じて雪州会だより発刊の言葉とする。
〔題字は真鍋会長)
昭和四十八年十二月一日
卑事多能
父松永安左ヱ門の思い出
松永安太郎
凡そ、五十年位前、震災の年に、私は、石田小学校を、卒えて、中学に、入る為め.上京して来た。その頃、父は、福岡、佐賀、長崎に電灯を、供給していた。九州電灯鉄道株式会社と、愛知、三重、岐阜、奈良、和歌山に、電灯を供給していた。名古屋電灯株式会社とを、創立した。ばかりの、時で、非常に、油の乗り切った、血気盛んな時代であった。
朝は、早くから家を飛び出して、夜は十時、十一時迄、家をあけて、仕事、仕事で、凄しい位、駆け回っていた。今で云う、全力投球、そのものである。子供心にもその姿は、非常に立派に見えた。その様に、忙しい父も、用のない日の、朝だとか、日曜日の、午後等には、私など、書生達を、集めて、郵送されて来た、書状の、整理とか、小包の.開梱とか、種々な、ことを、教えてくれた。包み紐は、必ず、ひもどかせ、絶対に、鋏は、入れさせなかった。又、包み紙は、奇麗に、たたませて、吾々に、倹約の、仕方を、教えて呉れた。
その様な折、父が、十三才頃から、師事していた、福沢諭吉先生の、お話を、好くして、呉れた。福沢先生は、卑事多能と、云う言葉を、度々、云われた。卑事多能とは、仕事には、上下の差はない。下男や、下女が、やる様な、仕事でも、うまくやらねば、ならぬ。どんな、つまらぬ、仕事でも、お前さん達か、知恵を、つかって、やれば、下男、下女達より、うまく出来る筈た。と云う様な訳だ。
大の
福沢党である父は、エリート意識を、もって、肉体労働を、いとう様な、人を、極端に、嫌った。
今流行の、言葉である、プラン・ドウ・シイ、を実行した人てあった。
(サンケン電気(株)副社長./雪州会評議員)
コメント
雪州会とは何ものぞ!とメガロポリス東京に住む前から名前は知っていたが考えてきた。今回「雪州会創刊号を発見、読んでみて「目からうろこ」が実感です。先輩方のふるさとへの思いはいつの世も同じなのですねえ。しかし、少しづつ時代背景による価値観の変化が現れているように思われます。ご感想はそれぞれに異なる事でしょうが・・・戦後57年のこの平和・・・日本の歴史上またとないほどの繁栄・・・それが見るも無残に崩壊して世は、日本崩壊かと騒ぎ立てる昨今。
”翁”の姿に何かを感じないでしょうか。 Iron1
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