松永安左ヱ門
 権威を嫌う”電力の鬼”の迫力
      貞森潤一郎(元電力中央研究所理事)・・・・【平成18年文芸春秋二月特別号】

 敗戦後の電力事業再編で、政策的低料金、補助金やプール金に頼った戦時統制下の体制をうち崩し、現在の姿を作った松永安左ヱ門。「電カの鬼」と呼ばれたのは、その後のことである。大茶人としても知られるが、数寄者垂涎の名器は後年、茶室ごとそっくり東京国立博物館に寄付。勲一等のメダルもお手伝いの子供の玩具にした。世間の価値観におもねらず、信念を貫いた松永は昭和十六年、九十五才で永眠。貞森氏は晩年まで身近に仕えた。


「官僚は人間の屑である」
 昭和十二年の大講演会で、壇上から松永安左ヱ門さんが言い放つと、その場に居た官僚たちは憤然と色をなしました。 産業の振興は経営者の自主発奮と努力によるもので、官庁頼みではならない、というのが松永さんの主張です。しかし、戦前の官僚の権勢は、今日とは比べ物にならない。たちまち新聞が書き立て る大騒動となりま⊥た。

 権威にふんぞりかえる人間や、それに婚びる態度が嫌いな、松永さんらしい逸話です。 戦前、北九州から東北まで多くの電力会社を勢力下に置き、″電力王″といわれた松永さんですが、昭和十七年に中核だった東邦電力が国家管理体制に組み込まれると、百にも達した役職を全て辞めて、武蔵野の山荘にこもってしまいました。大茶人と呼ばれた益田鈍翁、原三渓ら大物財界人に手ほどきを受けた松永さんは、自らを「耳庵」と号し、世俗を絶って、侘び茶三昧の日々を送ったのです。

 松永さんの戦後の活躍は昭和二十四年から始まります。GHQの督促により電力事業民営化をすすめる政府は、電気事業再編成審議会を設置し、松永さんが会長に就任します。全国の発電を一社で担う日本発送電の解体には守旧派だけでなく、審議会の委員全員が反対して孤立しますが、ついに実現しました。

 松永さんが「電力の鬼」と呼ばれるのは、次のことからです。発足直後の新会社に採算可能な料金を算出させて、平均七割もの値上げを申請させました。これには日本中が驚愕します。新聞ラがオ、各政党、主婦連、のみなら電産労組も猛烈に反発し、東京築地本願寺に集まった群衆は、「″電力の鬼″松永を殺せ!」 とデモを行いました。

 ただし、その頃の電力事情を見れば、朝鮮戦争による好景気で電力需要は急増する一方、燃料の石炭は高騰して電力会社の経営を庄迫していました。停電は頻繁に発生し、大規模な投資で発電量を増やさなければ、産業復興に重大な障害と なることは明白だったのです。

 国会で反対派議員に追及された松永さんは、「耳が遠いので」ととぼけたり、 「家内が、いかに日本中が反対しても私 がついておりますと言うので引けない」 と笑わせたり、各電力会社を九頭の乳牛にたとえて、「乳もたっぷりしぼり、皆 にのんでもらいたいのに、「日本の村人は、これにまぐさをやるだけの乳代をはらうのは嫌だといっているようなもの」などと語って、滔々(とうとう)と自説を押し通 しました。

  その後、驚異的な経済成長とともに、 二倍三倍と伸びていく需要に対して、電力供給が麻痺状態にならなかったのは、松永さんの先見の明と行動力のたまものです。「前年の実績をもとに考える役人では、絶対にできない」と、語っていたことを覚えています。

 松永さんは、よく怒鳴ることでも有名でした。発電方法の主力を、水力からより機動的な火力ヘ転換しょうとしていた昭和二十年代終わりごろ、水力発電設備を多く抱える東北電力の社長と話していた松永さんは、議論の最中に激昂し、「まだ、わからんか!」と湯飲みを投げつけました。ハッとして松永さんを見ると、横を向いてニヤリと笑っているが一種の憫喝、ポーズではなかったでしょうか。

 私は、松永さんが昭和三十一年に設立した「産業計画会議」で身近に仕えました。政財官学の有力者二百人余を擁した民間シンクタンクは、当時では珍しかった。高速道路建設や東京湾開発など十六回にわたってレコメンデーション(提言)を発表して大きな話題になりましたが、最もカをいれたのが国鉄改革です。鉄道と電力は産業構造に似た部分があるので、問題の深刻さが如実に理解できたのでしょう。これが、後に土光臨調の国鉄民営化議論につながっていくのです。

 様々なしがらみを断ち切って改革に取り組んだ松永さんは、次の一首を残しています。
 「生きているうち鬼といわれても  死んで仏となりて返さん」